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 母の名はジェノバ。
 声も顔も知らぬ母の、唯一の情報は名前だった。
 それを知ったきっかけが何だったのかはもう覚えていない。
 おそらくは、あの男の気まぐれだったのだろう。
 むしろ、鮮明に記憶にあるのは、その後のやり取りのほうだった。

「では父は?」

 そう問うた俺に、あの男は言った。

「それはーー」

 『それ』の指すものは、父の名だったのだろうか。
 もしくは、父の存在そのものであったのかもしれない。
 あるいは、そのいずれでもあったのだろう。
 どちらにせよ、あの男がそう言う以上、得られる答えはあるはずがなく、同時に俺が答えを知ることはこの先もありえないのだということだけは、理解できた。

 だから、そういうものなのだと納得をするしかなかったのだ。 

Unnecessary

 一番古い記憶は、手の記憶だ。
 自分自身の手ではない。それは確かだが、誰の手であるのかは解らない。
 俺の髪を撫でる手の感触。
 それが、一番古い記憶だった。
 記憶にある手の感触は、例えば今隣にいる男が戯れに髪に触れてくるように、軽やかで少し照れくさくてくすぐったい、そんなまるで風のような感触とは違っていて、髪の一筋までをも惜しむように確と、だが壊れものを包み込むような感触でもある。
 その記憶は、時折ふと沸き起こることがある。思い出すというよりは、沸き起こるという言葉に近く、自分の身体の奥のほうから、突然に溢れ出てくる。
 記憶の奔流を自分自身で制御することはほとんど不可能に近く、一度溢れ始めると、身体の奥で解き放たれたそれが、記憶の中の感触そのままに、身体全体を包み込むまで、ただ途方に暮れることしか出来ない。記憶の流れはやがて全身を包み込む何かへ変化し、その時ようやくすべてを記憶に委ねることが出来る。
 それを、何と呼ぶのか、解らないままだった。

「どんな気分なんだ?
ひさしぶりの故郷なんだろ?
どんな気分がするものなんだ?
俺には故郷がないからわからないんだ……」

 村の入り口で、詮無いことを聞いてしまった。
 聞かれた方も、またその場にいた者も、戸惑っていたような気がする。
 自分でも何故そんなことを、しかも執拗に問うてしまったのか理解できず自嘲の笑いがこみ上がる。
 そして、それとともに、あの記憶の奔流に襲われていた。

「お前の一番古い記憶は、いつ頃のものだ?」

 訳の分からない衝動と古い記憶の流れとが去った後、村の中心へと歩きながら、隣を歩くザックスにそう尋ねてみた。

「一番ガキの頃の思い出ってことか?」
「いや、思い出でなくてもいい。単純に、一番古いと思う記憶だ」
「一番古い記憶、ねぇ……」

 ザックスがしばし考え込む。
 何もない、ただ魔晄炉があるだけの山裾の村だと聞かされてはいたが、確かに何の特徴もない村だった。
 広場の中央にあるのは、給水塔だろうか。そも周りを走り回っていた子供たちが足を止め、こちらを伺っている。大人ならともかく、子供がこの反応とは、ずいぶんと閉鎖的なように思えた。

「いくつの時かは覚えてねぇけど。チョコボの雛、頭に載せてるってのが一番古い気がする」
「チョコボ?」

 あまりに予想外、さらに意味不明な答えが返ってきた。
 
「あー、なんで頭に載せたのか、ってか、もしかしたら誰かに載せられたのかもしんないし、その辺の細かいとこはほんと覚えてねぇんだけどさ。とりあえず俺の頭に子供のチョコボが載ってて、落としたらヤバイってなんか焦ってんの」
「それが、一番古い記憶?」
「たぶんね」
「そう……か」

 もっと具体的な、それこそザックスが言ったように、思い出のようなものを皆覚えているのだと思っていたから、意外な返答に思わず言葉に詰まった。
 ちょうど滞在する予定の宿に辿り着き、そこでようやく、この村が故郷ならば実家に帰る許可くらいは出さねばと思い至り、その旨を伝える。
 折しも話題になったチョコボのような金髪の頭を下げ、立ち去っていった兵士の姿を見送り、再びザックスと並んで歩き出す。
 小さな宿屋の入り口を潜った。

「先ほどの話だが」
「うん」
「そんなもの、なのか……もっと、何かこう、明確な出来事ではなく……」
「どうだろうな。俺も他のヤツがどうかなんて知らないし」

 フロントというよりは受付とでも言ったほうがいいだろう、宿屋の入り口で立ったまま話をしていたら、同行していたもう一人の兵士が手続きが済んだと呼びに来た。ザックスが軽く手を上げて返事をし、二階へと階段を上がって行く。
 
「でも、案外そんなもんかもしれないな。どーでもいいようなことなのに、なんか忘れられないってこともあるしな」
「確かに、それはそうだが……」
「どーしちゃったのよ、今日は」
「いや……」

 先ほど、村の入り口でのこともあるのだろう。
 おかしいか?と聞くと、ほんの少しの沈黙のあと、そんなことないけど、という答えと笑顔が返ってきた。

 階段を上がり、突き当たりの部屋を使うらしい。
 歩くと軋んだ音のする木の床から、ふと何気なく廊下の窓へと視線をやる。
 窓の外の風景が、目に留まる。
 
 そっくり同じ風景ではない。
 角度や高さ、細かい部分は異なっている。
 だが、同じ風景だ。
 見ている場所が、視点が違うのだろうか。
 でも、確かに。
 知っている。

「……この風景、俺は知ってるような気がする」

 無意識に、言葉が滑り落ちた。


 この場所を、私は、知っている。

「母の名はジェノバ。
 俺を生んですぐに死んだ。
 父は……」

 ああ、そうか。
 そういうことだったのか。
 あの男の言うとおりだ。
 父は、
 私に父は、



『必要ない』

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