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forget me not

 かつて、世界を見下ろすかのごとく地上数十メートルのプレート上に作られた街。  今は無惨な瓦礫に成り果てたその街を眼下におさめる丘から金髪の青年が下りてくる。  彼は、自分を待っている人がいたことに気づくと、一瞬驚いた顔を見せ、すぐにふっと表情を和らげた。  丘の下に停めたフェンリルの側に、黒い長髪の男が立っている。

 あの丘は彼だけの不可侵の場所。だから此処で彼を待つ。
 丘へ上がることはしない。
 ヴィンセントはそう決めていた。
 自分にとっての『祠』のようなものだ。きっとクラウドも『祠』へ立ち入ることはしないだろう、と思う。
 どれほどに長い時を経たとしても、互いに触れることはない場所、触れてはいけないと感じる場所があるのだ。
 だがその事実は決して寂しさや虚しさを彼らにもたらすものでもなかった。

 そんな場所であるから、ヴィンセントが此処を訪れるのはかなり久々のことだった。
 もっとも訪れたと言うよりは通り掛かった、と言う表現が正しい。
 ミッドガルの跡地から帰る道すがら、見慣れた大型バイクを見掛けた。それで丘の上にいるであろう持ち主が現れるのを待つことにしたのだ。
 クラウドが此処にいたのも偶然、そもそも彼もヴィンセントが旧ミッドガルへ赴いていたことなど知るはずもない。

「どうしたんだ?こんなところで」
「偶然だ。ミッドガルにいたのでな」

 そうか、と小さく応えクラウドはバイクに跨がる。キーをさしながら
「乗ってくだろ?」
 と当然のようにヴィンセントに声をかけた。
 しかし返事がない。
「……ヴィンセント?」
 答えがないことを不思議に思い、彼の方へ振り返ると、ヴィンセントは丘の上を見つめていた。
 地にしっかりと刺さる一振りの大剣。
 ヴィンセントの記憶ではその場所は吹きっさらしで地肌が剥き出しのまま広がる、荒野に似た雰囲気だったはずなのだが……

「花、か……」

 記憶とは異なり、その丘には早春の空よりは濃く、しかし海よりは薄い、柔らかな青がひろがっていた。


「ああ。大分前に、教会から摘んで来たんだけど……勝手に繁殖したみたいだ」
 凄いよな、ふっと目元を和らげながらクラウドが言う。

「何だったかな、名前……」
 記憶をたどるように、蒼い魔晄の眼を細め遠くを見つめた。
 やがて再び口を開いた彼の言葉に、今度はヴィンセントが紅い眼を細めた。
「……ああ、そうだ、名前は……」

「スノードロップ?」

 白い花を前にして地面にしゃがみこんだまま、亜麻色の髪の少女が小首を傾げながら、背後に立つヴィンセントを見上げた。

「ああそうか、お花の名前、ね?」

 そうだ、と答えると、彼女はふーん、と感心したように頷き、また白い花弁に細い指を這わせる。
 スラムの花売り。
 そう自らを表現したエアリスだが、どうやら花の名前には詳しくは無いようだ。
 彼女自身が育てた花を売っていたという話ではあったが……
 そう思ったヴィンセントだが、口に出したわけではない。相変わらずの無表情だから、顔に出ていたわけでもないはずだ。
 しかし、ようやく立ち上がったエアリスは、悪戯っぽく笑うと

「なんだか不思議そう、ね」

 とヴィンセントの顔を覗き込む。
 彼の返事を待つでもなく、エアリスは独り言のように続けた。

「ミッドガルにはね、お花、ぜんぜん咲かないの。教会と、私のお家の周りくらい、かな、咲いてたのは」

 ヴィンセントにとっての数十年ぶりの外の世界は、記憶の中の世界と比べて確かに緑が著しく少なくなっていた。
 殊に彼の眠っていたニブルヘイムは魔晄炉があったことから、まったく花も咲かず、緑も無い、地のむき出しになった土地へと変貌を遂げていて、ニブル山中を歩きながら驚いたものだ。同時に、この変貌こそが星の死へとつながるのだと、実感もした。

「だから、みんなきっと、知らないんだ、お花の名前。
 いろんな人にお花売ったけど、名前聞かれたことなんて無かったなぁ」

 なんだか悲しいね、エアリスはそう言った。
 ひたすらに上を利便さを幸福を求めた都市にあって、消え行くばかりの花の名前など、存在しないも同然だったのだろう。
 花など無くとも人は生きて行ける。
 そうして、花の生きることの出来ない世界では人も生きてはいけない、という事実を忘れてしまったのだ。

 エアリスの言葉から、そんなことを取りとめもなく考え始めたヴィンセントだったが、数歩前を歩く少女がふいに振り返ったために、思考を止めた。

「あのね、青くて小さなお花なんだけど、名前わかるかな?」
「青くて小さい……?」

 ヴィンセントとて決して花の名前に詳しいわけではない。それだけの情報で解るはずがなかった。
 彼の困惑に気づいたのだろう。
 エアリスはなおも説明を続ける。

「大きさはこのくらい。花びらは5枚で、真ん中が黄色くなってて……」

 葉っぱは細長いの、そんな断片的な説明を続けながら、またしてもエアリスは地面にしゃがみこんだ。
 落ちていた木の枝を拾うと、がりがりと土の上に絵を描き始める。

「うん、こんなカンジ」

 どう?知ってる?
 期待を込めた目をエアリスはヴィンセントに向けた。
 ヴィンセントもエアリスの横にしゃがみこみ、彼女の描いた絵を見つめる。

「クラウドがね、買ってくれたお花なの」

 最初に出会ったとき、彼女はクラウドに花を売った。
 その後、偶然にも彼女がタークスに追われているところへクラウドが落ちてきてボディガードを頼んだのだ。
 そうエアリスは説明した。
 クラウドが落ちてきた云々のあたりがヴィンセントにはよく理解ができなかったのだが、いずれにせよ彼女にとって思い出の花なのだろう。

「……おそらく、」

 少し考えた後に、彼は口を開いた。記憶の中にある、ひとつの花の名前と一致するようだ。

「フェルギス・マイン・ニヒト……」
「ふぇる……?」

 聞きなれない響きの言葉にエアリスは眉を顰め、首をかしげる。
 そんな彼女の様子にヴィンセントはほんの小さく笑うと、その花のもうひとつの名前を彼女に告げた。

「フェルギス・マイン・ニヒト。またの名を……」

「勿忘草」

 そう呟いたクラウドの声音は、大切な名を呼ぶようで、優しい。

「ああ」

 応えるヴィンセントの低い声もまた、どこか懐かしさを含む優しさを帯びている。

「すっかり忘れてたよ……エアリスが教えてくれたのに」

 少しずつ、少しずつ遠くなっていく思い出。
 ほんの少しずつだけれど、確実に減っていく記憶に怯えたこともあった。
 今もそれは恐ろしいことのひとつなのかもしれない。
 永い時を生きる自分たちにとって。

「彼女から買った花、か?」

 互いの過去には立ち入らない。
 いつの間にか出来上がっていた、不文律のルールを、ヴィンセントは敢えて破ってみる。
 たまには良いかもしれない。

「なんで……あんたが知ってる?」

 知っているのは、自分と彼女。今では自分だけなのに。
 クラウドの蒼い眼が驚きに見開かれる。

「彼女から以前聞いた」


 思い出を共有しよう。
 時の止まった自分たちの上にも、時間は流れる。
 それが、記憶の消失という形であっても、抗ってみればいい。
 元より時間に逆らう自分たちだ。
 記憶を共有した、その出来事がまた新しい記憶となり、古い記憶と共に残るのだ。

 勿忘草。
 クラウドにも教えてあげよう。
 ありがとね、ヴィンセント。

 巡り巡った花の名前のように。
 記憶も巡る。

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