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昔も今も―あのとき―
Now and Then -in the old days-
そういえば、今日は自分はオフの日だ。
いつもと同じ時間に起床し、いつもと同じように紺のスーツに袖を通し、いつもと同じく子供の相手をしていたヴィンセントは突然にそう気付く。
こんな山のふもとにあるような村では遊ぶような場所はなく、かといって村の外へ遊びに出て一日でまた村へと戻ってくるというのも無理なことである。村の中にも近隣にも、そのような気の利いた場所などない。つまるところは田舎なのだ、ニブルヘイムは。
だが、ヴィンセント自身としては村の生活にも環境にも、それほどの不満は抱いていない。このニブルヘイムの屋敷へと派遣される以前、本社勤めだった頃の休日の過ごし方は自室で読書を楽しむ、ということが精々で、それは結局のところ今の彼が置かれている環境下でも十分に再現可能な生活なのだ。
……そして何より、今この屋敷にはこの子がいる。
それが、彼がこの生活に満足している一番の理由なのかもしれない。
休日とは言え制服を着てしまうのは、突き詰めれば楽だからという一言に集約されるなとヴィンセントは思う。私服姿が見たいと、今膝の上で大人しく絵本を読んでいる子供に強請られたこともあったなと思うと自然と顔が綻びる。ファッションというものに然したる興味もない彼にとって、着慣れた制服はたとえキッチリとしたスーツ型の服装であっても楽な服装に違いないのだった。
しかしやはりオフなのだ、せめてタイくらい緩めても良いのではなかろうか。
そう思い、普段通りにきっちりと締めたネクタイの結び目に指をかけ軽く引く。
ネクタイを締めるのは馴染んだ行為で日頃息苦しいなどと思ったこともないのだが、軽くタイを緩めると、自然とため息のようなものが零れた。
ふぅと小さく息を吐く音に、膝の上に座っていたセフィロスが顔を上げた。
どうしたの?と言葉に出す代わりに、翡翠色の瞳を数度瞬かせるとゆっくりと首を傾げる。
その愛らしい仕草に、ヴィンセントはタイのノットに掛けていた右手をセフィロスの頭へと持って行き、ポンポンと軽く宥めた。
ヴィンセントの右手の動きを追っていたセフィロスは、髪を梳かれる感触にうっとりとした表情を浮かべ、だがすぐに先ほどまで右手が掛けられていたタイの結び目へと視線を戻した。そして徐に乗っていたヴィンセントの膝の上で上手くバランスをとりながらモゾモゾと体制を変えようと動き始めた。
先ほどまでヴィンセントの胸に背を預けていたセフィロスは、あっという間に反対向き、つまりヴィンセントと向かい合うような向きへと落ち着く。
そうしておいて、改めてネクタイの結び目へと視線を向けると、ふいに小さな白い手をそこへと伸ばした。
「セフィロス?」
何をするつもりなのだろうと声をかけると、上目遣いに自分を見上げる星の色の瞳と視線が合う。その瞳に、悪戯を思いついた子供特有の期待とわずかな不安とが入り交じる光を見いだし、微かな安堵を覚えたヴィンセントはセフィロスの小さな手が自分の胸元を動き回るのを止めることなく見守ることにした。
セフィロスは緩められたネクタイをさらに解きにかかっている。
しゅるしゅると衣擦れの音が耳に届くと、セフィロスはさらに楽しげな表情を浮かべ、結び目を解いていった。
途中、何度か手順を迷うような素振りも見せたものの、最後までネクタイを解ききったセフィロスはまた楽しそうに笑う。
「こら」
決して咎めるような響きはもたせず、どちらかと言えば子供につられた笑い声すら滲ませてヴィンセントはセフィロスの額を軽く小突いた。セフィロスは、この子供にしては本当に珍しく、きゃらきゃらと声を上げて笑っている。
そしてヴィンセントの首にぶら下がるだけとなったネクタイを、今度は逆に結ぼうとあれこれといじり始めた。
「わかんないよ」
セフィロスがギブアップ宣言を口にしたのは、それから10分の後だった。
その間もくすくすと実に楽しそうな笑い声を上げながら、ネクタイで輪を作り先端を通したり、それをまた解いたり、タイの両端を手にして考え込んだりと奮闘していたのだが、元通りにするのは当然のことながら無理だったようだ。
ようやく両手をタイから外し、ほんの少し困ったように見上げてくる子供に
「見ててごらん」
と告げると、ヴィンセントはゆっくりとネクタイを締めた。
それは些か真剣すぎやしないかと苦笑したくなるほどに、セフィロスはヴィンセントの手元をじっと見つめている。
「これで完成だ」
慣れた手つきできゅっとタイを締め終えると、息を詰め瞬きすら忘れたように一連の動作を見つめていたセフィロスがふぅっと息を吐く。
そして、再びヴィンセントの喉元へと小さな手を伸ばした。
結び目が少し緩められていた先ほどとは異なり、固く締められたノットに若干戸惑ったようだが、すぐに先刻のヴィンセントを思い出したのだろう、ノットを軽く引き上手い具合に結び目を緩ませると、するすると今度は迷いのない手つきでネクタイを解いていった。
解けたネクタイを左右の手にそれぞれ納め、しばし考えた後に、太いほうを細いほうへとくるりと巻き付ける。そしてまた少し考え、太い方の先端を、タイの裏側を通して、最後に先ほど巻き付けることで作った輪へとネクタイの先端を通した。出来た結び目を喉元へきゅっと締め上げれば完成だ。
「できた……っ」
満足そうに歓声を上げると、セフィロスはじっとヴィンセントの顔を見上げた。
まさか一度手本を見せただけで、まだ幼い子供が完璧に再現出来るとは思っていなかったのだが。
そんな驚きに目を見張ったヴィンセントだったが、セフィロスの視線に気付くとすぐに穏やかな笑みを浮かべ、銀の髪にそっと手を滑らせる。
「ありがとう」
礼の言葉を口にすると、セフィロスはヴィンセントの赤い瞳を見上げたままぎゅっと胸に抱きつき、
「またやってあげるね」
そしてまた、楽しそうに笑い声を上げた。
数日後。
うっかりといつもより寝過ごしてしまったヴィンセントは、少々慌てた様子でセフィロスの部屋の扉を開けた。
「おはよう、セフィロス」
「ん……おはよう…」
挨拶だけはしっかりとするように言い聞かせているせいか、あまり寝起きが良いとはいえないセフィロスなのだが、きちんと言葉は返す。
寝台から下りたセフィロスは、眠そうに目を擦りながらいつものようにぺたぺたと歩き、ヴィンセントの前へとやって来る。そんなセフィロスの白い額に毎朝のようにキスをしようと床に膝を着いたヴィンセントだったが、彼の行為を止めたのは他でもないセフィロスだった。
「ヴィン……まがってる」
子供の小さいな白い手が喉元へと伸ばされ、しゅるりとネクタイの結び目を解くと、すぐにまた結び直した。
ノットの形を整え、今度はタイが歪んでいないことを確認したセフィロスは、背伸びしてヴィンセントの額へと唇を寄せる。
「かっこよくなった」
満足げなセフィロスの額に、先ほどとは反対にヴィンセントが唇を落とす。
「ありがとう」
礼を言うと、二人は額と額をこつりと触れ合わせ、しばしクスクスと笑い合った。