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ひとつだけの月
@DFFOO
夜空を見上げるたびに、不思議だとセシルは思う。
見上げた先には、白く綺麗な円を描き輝く月がひとつだけ。
風変わりな一行と出会って、旅路を共にすることになった。
ここは自分がいた星とは異なる世界だと、人の言葉を話す白い生き物から説明をされて、そうなのかと受け入れはした。
だがその事実を、心から納得出来たのは、おそらくその日の晩に夜空を見上げた時だっただろうと今は思う。
――この世界の空には、月はひとつしかない。
そこにあって当たり前のものが無いということの不思議を考えると、セシルの思考は、最後は決まって彼のことに行き着く。
隣にいるのが当たり前だった親友。
ミストの村で混乱のさなかに別れたきりで、その後久方ぶりに再会すると、彼はセシルにその槍を向けた。
そうして今度は異世界に迷い込んで、この世界でまた久しぶりに出会った彼は、ファブールでの出来事が夢だったのではないかと思うほど、セシルに対して優しかった。まるで、昔のように。
セシルには、どうしたらいいのかが分からない。
信じて良いのか。
けれどもあの時向けられた冷たい殺気が忘れられない。しかし、無闇に疑うことも出来ずにいる。
彼は疑われても仕方が無いと、だから好きにすればいいと笑っていたけれど。
ふいに背後に人の気配を感じた。
気配というより、視線だろうか。
近付いてくるわけでもなく、かと言って立ち去るつもりもないらしい。
「……」
セシルは軽くため息を吐く。
振り返るのにも、勇気がいるのだ。
そこにいる相手が誰なのか、分かっているからこそ、確かめるのが怖い。
「……カイン?」
気付かぬ振りをしていれば、やがて彼は無言のまま立ち去ったのだろうか。
けれどそうしたとしても、結局は後悔するに決まっている。
何か話があったのだろうか、声を掛ければよかった、と。
だから小さく息を吸って、振り返らぬままに、親友の名を呼んだ。
返事はないまま、彼が近付いてくる足音だけが聞こえる。
やがてその足音は、セシルの真横で止まる。
いつもよりも――記憶にあるよりも、半歩だけ遠い距離。
「邪魔をしたか?」
彼の低い声が耳に届く。
「いや……」
隣に立つ彼を見上げることも出来ず、まだ夜空の月を見つめたまま、セシルは小さく答えた。
何か用かと尋ねることも、まるで用件をさっさと話して立ち去れと言っているような気がして、結局言い出せなかった。
だからと言って他に話すことも思いつかず、セシルはただ黙ったまま夜空を見上げていた。
話題がないわけではない。
彼に尋ねたいこと、知りたいこと、話してもらいたいこと、そんなものはそれこそ無数にある。
たくさんあるのだけれど、同時に、何も聞きたくはなかった。
「……よく俺だとわかったな」
しばらく続いた沈黙の後、口を開いたカインがそう言った。
まだ隣にいるというのに、顔を見ようともしないセシルを揶揄するつもりなのだろうか。
そんなはずはないのに、それでもくだらないことを考えてしまう自分の思考が嫌で仕方が無い。
「お前だって、声を聞けばわかるって言ってただろう。お前の気配くらい、僕だって見なくても分かる」
「それもそうだな」
意図しているわけではないのに、どうしても尖った口調と声音になってしまう。
しかしカインは、そんなセシルを咎めることなく、穏やかに笑っている。
昔から些細なことでよく一方的に拗ねるセシルを、仕方が無いやつだなと言いながら見つめていた時の声に似ていて、それは懐かしいというよりも、どうしてあの頃のように上手くいかないのだろうと泣き出したくなるような記憶だった。
「でも……お前が何を考えているのか、僕にはわからない……」
「セシル……」
「お前は、僕が何を考えているかなんて、顔を見なくてもすぐわかるんだろうけど。でも、僕にはわからない……お前の顔を見たってわからないよ……!」
叫ぶようにそう声にして、初めて隣に立つ彼に向き直った。
カインは子どもの頃からあまり感情を表には出さないタイプで、けれど、決して感情表現に乏しいわけではなく、いろいろな顔を知っているとセシルは思っている。
そう思えるくらいには、同じ時間や場を――記憶を共有してきたはずだ。
久しぶりに、真っ正面から彼の顔を見つめた気がする。
セシルの視線の先で、カインは笑っているような、それでいてどこか悲しそうにも見える顔をしていた。
こんな顔は初めて見る。
戸惑いだとか、迷いだとか、そんな曖昧な感情は、決して他人には――セシルにさえ見せることはなかったのに。
「お前を、惑わせるつもりはなかったんだがな」
セシルを見つめ返し、彼はそう呟くように言った。
ふと目を閉じて長い髪を掻き上げる。
それは彼が困っている時の癖だと、セシルは知っている。
――わからないのは、自分だけではなかったのだろうか。
すまない、と咄嗟に口にしそうになって、けれども結局声にはならなかった。
彼の視線から逃れるように、セシルは再び夜空を見上げる。
まるい、ひとつだけ空に浮かぶ月。
それを見つめながら、セシルは口を開いた。
「……いつも、不思議だと思うんだ」
先ほどまでとは違って静かに語り始めたセシルの横顔をカインが見つめているのが分かる。
「僕にとっては……いや、僕らにとっては、月はふたつあるものだろう」
「……ああ」
彼が小さく返事をする。
そのため息のような微かな声を聞きながら、セシルは空に浮かぶひとつの月に手を伸ばした。
「あるはずのものが無いって、どうしてこんなにも……寂しいんだろう」
ひとつしかない月の明かりが心許なくて、夜がいつもよりも暗く感じるように。
隣にいるはずの人がいないだけで、寂しくて仕方がなかった。
だけど、今でも。
「でも、隣にお前がいるのに、どうして僕は」
こんなにも寂しくて仕方がないんだ。
隣にいるはずなのに、いなかった頃よりもずっと遠くにいるような気がしている。
隣にいるはずなのに、いつもより半歩だけ遠い距離が寂しくて仕方が無い。
「……ひとつだけの月、か」
彼の視線がセシルから逸れて、空に向く。
ぽつりとそう呟き、しばし彼は考えると、またその視線がセシルに戻ってくる。
「今のお前のようだな」
再び口を開いたカインが、そう言った。
「……え?」
「なくしているものがあると、言っただろう」
「ああ。でもそれが何かは、言えないって」
セシルの言葉に、頷きながら、カインが続ける。
「今はまだはっきりとは言えない。が……あるはずのものがない、そういう類いの話だ」
「……」
こんなにも寂しくて心許ないのは、なくした「何か」のせいなのだろうか。
「心配するな。ちゃんと取り戻すまで……俺はここにいる」
「カイン……」
「お前を惑わせてまで隣にいるのは、それを見届けるためだからな」
最後まで付き合うと、決して見捨てないと、そういう意味なのだろうか。
ふっと彼が笑った。
「……形を変える月に誓うというのも、不誠実な話だな。だが、俺にはそのくらいが似合いかもしれん」
信じるも信じないもお前次第だと、カインは言う。
ここで再会した時から、彼の態度は一貫して変わらない。
少なくとも、セシルは今この時夜空に浮かぶ満月を、美しいと思う。
美しい月から降り注ぐ青白い淡い光の優しさは、彼が見せる優しさに似ていると思う。
「今はまだ……全部信じてるとは言えない。僕の気持ちも……月のように毎日変わっているから」
「それで構わん」
「本当に?」
「俺には……それで十分だ」
やはりまだ彼の顔を見つめ返すことは出来なかった。
けれど、少なくとも、カインの声はセシルの答えに満足しているように聞こえた。
そしてまたしばらく沈黙が落ちる。
「そろそろ戻って休むぞ」
彼の言葉に黙って頷いて、先に歩き出したカインの数歩後ろをついて行く。
無性に故郷の夜空が見たいと思う。
気付くと瞳に映る満月と彼の後ろ姿がぼやけて見えた。