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2019 バレンタイン

 それは、飛空艇の廊下を歩いていた時のことだった。

「きぃーーーっ! どうしてうまくいかないのよ!」

突然聞こえた叫び声に驚き、カインは足を止めた。声がしたのはちょうど今カインが立っている目の前にある扉の中からだ。声の主に見当はついていたが、状況が気になったので扉をそっと開けてみた。
 開けるなり甘ったるい匂いが鼻をついた。室内には予想通り少女の姿が見える。

「やはりお前か。何をしているんだ、エーコ」
「きゃっ!」

 エーコの背にカインが声をかけると、小さな悲鳴とともに彼女が飛び上がる。そしてこちらを振り返ると、
「の、ノックくらいしなさいよ! レディの部屋に勝手に入ってくるなんて失礼だわ。もう!」
「すまん」

 一瞬しまった、という顔をして、けれどもすぐに少女はぷりぷりと怒り出した。
 ノックをしなかったことは事実なので謝りはしたのだが、そもそもここはお前の部屋ではないだろうと思ったのもまた事実だ。飛空艇には大きな調理室が備えられていて、エーコを始めとした料理の好きなメンバーが出入りをしていることが多々ある。

「わ、わかればいいのよ。それより何をしに来たの? エーコ、今忙しいからカインと遊んでる暇はないの」
 何故か彼女はそわそわとしながら、あからさまにカインを調理室から追い出そうとした。隠し事をする時の典型的な態度だなと思ったのだが、それを指摘するのも可哀相だろう。大人しく部屋を出るつもりだったのだが、踵を返す直前に気付いてしまった。エーコの背後にあるオーブンの中にある物に。

「菓子を焼いていたのか」
「そ、そうよ。あ、あとでみんなにも持って行くから、だから、ね」
 エーコは動揺したままなおもカインを追い出そうとする。オーブンの中身の様子と、最初に廊下で聞いた声とを合わせて考えれば状況は明白だった。
 今まで気にも留めていなかったのだが、隅に置かれた調理台の上にはいくつもの黒い塊が並んでいた。おそらくケーキだ。だが、どれもぺしゃりと潰れていたり、ヒビが入り表面が粉々に割れていたりしている。要は失敗作ばかりが置いてあるのだ。

 カインはエーコの前に膝を突いた。オーブンの中身をちらりと確認して、
「うまく膨らまなかったんだな。ガトーショコラだろう?」
と尋ねた。子供が作るにはやや難しいものだろう。
 カイン自身は、自宅に専属の料理人がいるような階級の出だ。だが一時、料理に凝っていた時期があり、多少は知識があった。セシルが喜ぶし、ローザも甘いものを好むので、菓子についてもある程度詳しい。

「お前の腕では少々難しいかもしれないな」
「そんなことないんだから! エーコお料理は得意だもん……」
 小さくなっていく声に、言葉の選び方を間違えたことに気付く。
「いや、腕前の善し悪しの話ではない。言い方が悪かったな、すまん」
「じゃあどういう意味なの?」
「案外、力仕事なんだよ、特に菓子作りはな。生地を捏ねたり練ったりするのはかなりの労力が要る。『かよわいレディ』には骨が折れる仕事、そういう意味だ」

 彼女がよく好む言い回しを用いて説明をしてやると、どうやら納得したらしい。

「そうなの! チョコレートを粉と混ぜてもせっかく溶かしたのがすぐ固まっちゃうし、そしたら重くてうまく混ざらないし、チョコだけじゃなくてバターもそうで、それでやっと混ぜて焼いてみたら、ぺしゃんこになっちゃうし……」
 カインが自分の苦労を理解してくれたと感じたのだろう、勢いよく話し出したのは良いのだが、よほど苦労をしたのか、はたまたそれがすべて失敗に繋がっていることを改めて実感したからなのか、次第に声に張りがなくなり俯いていく。

「俺で良ければ手伝うが」
 こんなに落ち込んでいる幼い子供を見捨てられるほどカインも冷たくはない。幸い今は時間もある。

「ダメなの。エーコが作らないと意味がないから……」
「意味がない?」
「だって……ジタンに渡すためのお菓子なんだもの」
 彼女が張り切るのも分からなくはないが、エーコが料理を作って振る舞う機会は珍しくない。今更どうして拘っているのかが不思議だった。そんな疑問が顔に出たのだろうか、エーコは、
「実はね」
 とその理由を語ってくれた。

 この世界には、たくさんの世界から喚ばれた戦士たちが集まっている訳だが、どうやら何処かの世界には「愛する人にチョコレートを送り告白する日」というものがあるらしい。その日に誰かからチョコレートをもらうことがあれば、それは即ち好きだという告白の意味になるわけだ。一種の記念日のようなものなのかもしれないが、いずれにせよその日が今日なのだという。エーコにはロマンチックな出来事に思えたのだろう。そんな訳で、チョコレートの菓子を作り、ジタンに送ろうと決心したのだそうだ。

「エーコの気持ちをうんとたくさん込めて作るのよ。でも上手くいかなくて……」
 カインとエーコの視線はずらりと並んだ失敗作へと向く。
「もっと簡単なものにするのは?」
 チョコレートの菓子でないと意味がないようだが、トリュフやムースならばもっと手軽に作れるように思う。
「それじゃあなんだか逃げたみたいだもん……」
「そうだな、妥協と言えなくもないか」

 ケーキにこだわる必要はないのだろうが、上手く出来なかったから変更というのが許せない気持ちはカインも理解できなくはない。だが次の言葉には同意しかねた。
「手伝ってもらうのもなんだか手抜きみたいで」
「それは違うんじゃないか?」
「そうかしら」
「誰かに助けを乞うというのは一種の努力だと思うがな」
 半信半疑の少女にカインはそう言った。自分に出来ることを手間を惜しんで他人に押し付ければ手抜きだろうが、出来ないことを他者に委ねるというのは悪いことではないはずだ。カイン自身が他人に頼るのが苦手だということもあって、素直に他者を頼れるということはある種の美点だと思うのだ。

「もちろん誰を頼るのかという問題はあるが。お前が信頼出来ると思う相手に委ねるのならば、それは誇って良い手段だ」
「エーコが任せて大丈夫だって信じてる人に頼むのは悪いことじゃないのね」
「だと俺は思うが」
「そうよね……うん。ありがとう。……カイン、エーコを手伝ってくれる?」
「俺で力になれるなら光栄だ」

 エーコがにっこりと笑った。

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