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Dolce sueno
2013 ホワイトデー
人気のない廊下を、足音を殺して歩く。
扉の前で改めて、周囲に人の気配が無いことを確認した。
決して派手ではないが、繊細な美しい装飾の施された、趣のある扉。
かつては日に何度もこの扉をくぐっていたのだけれど。
掌に握っていた鍵の束からひとつを選び、扉の鍵穴に差し込む。
かちり、と小さな音が、静かな廊下に思いの外大きく響いて、心臓の鼓動が少し早くなる。
最後にもう一度だけ、誰の姿も無いことを確認すると、扉をそっと押し開く。
開いた隙間から、素早く部屋の中に身を滑らせた。
扉の閉まる音が立たないよう慎重に、後ろ手で静かに扉を閉めた。
閉じた扉に背を預けると、小さく息を吐く。
微笑のような、吐息が漏れた。
前室を抜け、主室の扉に手を掛けたところで、ふと立ち止まると、先ほど錠を開けたばかりの扉の前に戻る。
鍵を掛けるのを忘れていた。
もっとも、この部屋の主は十日ほど前から留守にしている。
城にいる大半の人間はそれを承知しているはずなので、尋ねてくる者はいないだろう。
それでも、念のために鍵を掛けると、今度こそ主室へと入って行った。
主の居ない、無人の部屋。
綺麗に片付けられてはいるが、それでもやはり、彼の気配が残っているように感じる。
だから、人気が無い寂しいはずの部屋は、セシルにとってはとても暖かい場所だ。
この部屋の鍵を貰ったのは、大分前のことになる。
カインが赤い翼の隊長に就くことが決まった、つまり彼がこの部屋を使うことが決まった直後のことだ。
手の中にある鍵の束には、この部屋のものではない鍵が数本ある。
それらも、ずっと昔にカインから貰ったもの。
彼の屋敷と、彼の部屋と。
子供の頃、彼の留守中にわざと部屋を尋ねて、部屋の隅に隠れて彼の帰りを待ったことを思い出して、懐かしく思った。
「俺のいない間も好きに使えば良い」
そう言って渡された鍵を、その言葉に甘えて時々こうして使っている。
さすがに毎日という訳にはいかないけれど、中長期に渡って彼が出かけてしまうと、折を見て彼のいない部屋でぼんやりと過ごすのだ。
十日前に彼が遠征に出て以来、この部屋を尋ねたのは今日が初めてだった。
予定では、帰国は三日後。
もうすぐ会えるはずだけれど、ふと思い出したことがあって、居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
鍵と一緒に手にしていた小さな瓶を、机の上にそっと置いた。
ちょうど一月前になるだろうか。
この部屋を尋ねた時に、彼から気まぐれに貰ったこのガラスの瓶の中には、チョコレートが入っていた。
「空になったら何か入れて返せ」
と言った彼の言葉は、おそらく冗談だったのだろう。
だが、彼がまた出かけていった十日前、ちょうど空になったガラス瓶を見て、彼が帰ってくるまでに、何か見繕って返そうと思ったのだ。
そして今、手のひらにすっぽりと納まるようなサイズの瓶には、薄青の飴玉が詰まっている。
数日前、城内の孤児院の子供がくれた飴玉は、空の色をしていた。
セシルにとっての彼のイメージは、いつも空に繋がる。
もらった飴玉を口にすると、涼やかな色とは反対に、とても甘い味がした。
これを彼に返そうか。
甘い甘い菓子を舌先で転がしながら、そう思った。
窓際の机の上に置いたガラス瓶が、窓から差し込む陽を真っ直ぐに跳ね返す。
瓶の中の、透明な空色の飴玉が、窓外の空の青に溶けているようだ。
直接、彼に手渡しても良かったのだけれど、こうして留守の間にそっと置いておいたら、どんな顔をするだろうか。
ソファに腰を下ろし、そんなことを考える。
甘いものはどちらかというと苦手なのを知っていて、わざと甘い飴玉を入れてみた。
きっと文句を言うに違いない。
それすら楽しみに思えて、小さな笑いがこみ上げてくる。
くすくすと笑いながら、ソファに仰向けに寝転んだ。
高い天井を見上げる。
すっかり見慣れてしまった光景。
きっと、かつてこの部屋がセシル自身のものだった時より、今のほうがこの天井をよく見ている気がする。
ソファの背に、上着が無造作に掛けられていた。
寝転がったまま、左手を伸ばして引っ張る。
略綬や徽章が付いたままの、軍服だ。
カインが忘れていったのだろう。突然決まった遠征だったから、出立が慌ただしかったのだ。
任務中は、あまり軍服に袖を通すことは無いだろうから、それほど困りはしないはずだ。
ふわりと上着を広げると、懐かしい匂いがした。
その瞬間、ふっと瞼が重くなる。
目を閉じると、あっという間に夢の世界へ、落ちていった。