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Dolce sueno
2013 ホワイトデー
カインがいる。
帰ってくるのは、まだもう少し先のはずだから、これはたぶん夢だ。
夢の中でも眠っている自分はどれだけ寝穢いのだろう。
そう思うが、目が開けられない。
目は開けられないのだけれど、姿を確認できないのだけれど、そばに彼がいるのは不思議と解った。
髪に触れられている。
彼の指先の感触が、とても気持ちが良い。
髪を梳く手が頬にも触れた。
もっと、触れていて欲しいのに。
やがてその指先が、唇をなぞっていく。
堪えきれずに、吐息が零れる。
その零れた息を掬うように、唇がふさがれた。
甘い、甘い、蕩けるような味。
離れていくその甘さが切なくて、目が覚めた。
「…………カイ、ン……?」
目の前、至近距離に親友の顔。
「やっとお目覚めか」
そう言うと、セシルの上に屈み込んでいたカインが立ち上がる。
「え……あれ……?」
「寝ぼけてるだろう、お前」
「いや……、だって予定は」
「仕事は片付いたから前倒して帰って来ただけだ」
そう、確かに珍しいことでもないのだ。
一日二日、早く戻ってくることは、これまでにも何度もあった。
「……おかえり」
ようやく回り始めた頭で、今更そう言うと、呆れ半分といった顔でただいま、と返される。
「いつ、戻ってきた?」
「着いたのは二時間近く前だぞ。ここに来たのは二、三十分くらい前か」
どうやらまったく気付かず寝ていたらしい。
「起こしてくれれば良かったのに」
「お前の寝顔を眺めてたら、それなりに楽しかったんでな」
「なんだよ、それ」
本気なのか冗談なのか、いまいち分かりにくい不敵な笑顔でカインが言う。
先ほど見ていた夢を思い出した。
――どこまでが夢で、どこからが夢じゃなかったんだろう。
無意識に、指先で自分の唇に触れた。
覚えのある甘い味は、気のせいだろうか。
「これ、貰っておくぞ」
「え、あ、ああ」
机の上に置いておいたはずのガラスの瓶が、いつの間にかカインの手の中にあった。
からからと瓶を振りながらそう言った彼に、頷く。
「こんな甘い菓子なんか入れてくるとはな」
「別にいいだろう?」
「わざとだな」
予想通りの軽口の応酬に笑いがこみ上げる。
「せっせと糖分補給したくなる程度には、仕事ならあるからな」
糖分補給が必要な仕事とは、つまるところ書類仕事の山のことだ。
カインが書類仕事を実は苦にしていることを知っていて、セシルは笑顔で告げる。
途端に、眉間に皺を寄せた親友に、本格的に笑い声を上げてしまう。
「だから、書記官でもつけようかって言ったんだ」
左利きの彼にとっては、汚さずに書類を書くと行為が殊の外面倒なことらしい。
書類仕事が苦手な理由が、そんな単純な事情だということも知っているので、過去に何度かそういう提案もしていたのだが。
「書記官なり補佐官なり、誰か人が付けば、四六時中此処か隣に人がいることになるが?」
彼から返ってきたのは思いがけない反論だった。
確かに、そういう状況になることは間違いない。
「それは困る」
即答してしまった。
いくらなんでも、さぼりに来たから席を外してくれ、とは言いにくい。
そもそも気軽にこの部屋に来ることも出来なくなる。
「……お前な……」
今まで曖昧に答えを濁されていたのは、どうやらセシルのためだったらしい。
「そういうことなら、ひとまずこれで手を打ってやる」
甘い飴玉の入った瓶を振り、カインが笑う。
どこまでも甘い、親友の存在。
「悪いな」
そう言いながら、ソファから立ち上がった。
そろそろ、セシルも仕事に戻らなければならない。
ずっと毛布代わりにしていたカインの上着を礼を言って彼に手渡す。
「ああ、そうだ。これはオマケ」
立ち去り際、不意を突いて彼の唇に口付けた。
想像通りの、甘い味。
視界の端に映る、空色の飴玉。
触れるだけの口付けで唇を奪うと、立ち尽くす彼をその場に置き去りにして、部屋から立ち去ろうとした。
「……不意打ちとは卑怯だぞ」
扉を開ける寸前、ようやくカインが言葉を発した。
だが。
「寝込みを襲うヤツに言われたくない」
そう言い返すと、まだ甘い気配の残る彼の部屋を後にした。