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『だから、手を繋いで』
―Rosa & Cecil―
鏡の前で悩み始めて、そろそろ一時間は経つだろうか。
煉瓦色のワンピースにオフホワイトのコートを羽織って、ベージュのストールを巻く。
ダークブラウンのパンプスを履いて、鏡に映った姿を確認する。
「……うーん……悪くはないんだけれど」
しっくりこないのよね、とローザはため息を吐いた。
コートを羽織っていれば気にならないのだけれど、脱いでしまうと濃い色のワンピースにダークカラーの靴は、ちょっと重たいなと思う。
「やっぱりこっちかしら」
パンプスを脱いで、今度はブーツに履き替える。キャメル色のショートブーツだ。
先ほどのフラットなパンプスと違って、細いヒールのついた編み上げのブーツを履くと、視線が少し高くなる。
そしてもう一度、鏡の前に立って全身をチェックした。
「うん、やっぱりこのほうが良いわね……」
踵が高い分、脚も長く見えてすっきりとした印象になる。
ストールのベージュとも近い色だしバランスも良い。
問題はひとつ。
この靴が、ハイヒールだということだ。
まるでつま先立ちをしているような、つんのめりそうになるほどの高さではないのだけれど、それでも拳ひとつ分くらいは背が高くなるはずだ。
「本当にいいのかしら?」
これから会う予定の幼馴染みの顔を思い浮かべる。
一つ年上だけれど昔から可愛らしくて、弟がいたらこんな感じだったのかしらと思う。
決しておとなしい訳ではないのだけれど、男の子にありがちな粗野な振る舞いとは無縁の、穏やかな性格のセシル。
もっともカインと二人の時は、多少は少年らしいやんちゃなこともしているようではあるが。
ローザがセシルと二人で会う時は、たいてい話題のスイーツを食べに出掛けたりと、まるで同性の友人と会っているような雰囲気になる。
そんな彼と会う時に、この一年ほどだろうか、気をつけていることがある。
どうやら身長が伸びないということを、セシルは気にしているらしい。
成長期のカインが順調に背を伸ばしていることが悔しくて仕方が無いようなのだ。
そんなところも可愛らしい。
ローザ自身もこの数年で随分と背が伸びて、同じ年頃の少女たちの間ではかなり長身のほうになる。
一つ年上のセシルとだいたい同じくらいはあるのだ。
だから、ヒールの高い靴を履いてしまうと、セシルよりもローザのほうが背が高く見えてしまう。
そんな事情があって、セシルと会う時には、出来るだけフラットなパンプスやローファーを選ぶようにしていた。
ところが昨日のことだ。
それらの事情を一通り把握している、というよりは察していると言ったほうがいいだろうか。
セシルの悩みもローザの気遣いも知っているカインが言った。
「それくらいの高さの靴なら、あいつの前で履いても大丈夫だと思うぞ」
と。
春には学校を卒業するカインと、そしてセシルは卒業試験を間近に控えて忙しく、ローザが昨日カインと会ったのは一月ぶりのことだった。セシルとはさらに半月以上会っていない。
その一月前にカインと会った時に、靴の話をしたからだろうか。
別れ際に、不意にそんなことを言われたのだ。
昨日は、今履いているブーツと同じくらいの高さのヒールがあるエナメルのパンプスを履いていた。
「大丈夫ってカインが言っていたし……いいわよね」
ローザにとってはいつでも頼りになる兄のような存在だ。
その彼がわざわざ言うのだから、間違いはないだろう。
「いけない、そろそろ出掛けなくちゃ」
セシルとの待ち合わせに遅れてしまう。
こうして、ようやく長い時間を過ごした鏡の前からローザは離れたのだった。
街の中心にある広場のベンチに座っていると、向こうから彼が歩いて来るのが見えた。
ローザに気付くと、セシルは小走りに駆け寄ってくる。
「ごめん、待たせたかな」
「ううん、私もさっき着いたところよ」
ベンチの前に立つ彼を見上げてローザはにっこりと笑う。
「私の方こそごめんなさいね、忙しいのに」
「忙しいってほどじゃないよ」
「でも試験ももうすぐでしょう?」
「今更焦っても仕方がないよ」
そう言ってセシルが肩をすくめた。
元より彼は成績優秀なのだ。
この春に卒業出来れば、おそらく学校始まって以来最短での卒業になるはずだと聞いている。本来ならば六年通うはずのところを、たった三年で卒業してしまうのだから。
カインが四年で卒業するのでさえ滅多に例のないことなのだが、セシルはそのカインと一緒に卒業するのだと、相当に頑張ったようだ。
にも関わらず余裕すら感じるセシルの様子に
「カインも同じ事を言ってたわ」
とローザはくすくすと笑う。
あまり性格的には似ているところのない二人だが、時々まったく同じ事を言い出すのだ、本当に面白いコンビだと思う。
いつまでも寒い屋外で話をしていて、大切な試験を控えているセシルに風邪でも引かせてしまったら一大事だ。
暖かいお茶でも飲みに行きましょうと、ローザは立ち上がった。
そこで初めて気が付いた。
「……あら?」
「どうかした?」
目の前のセシルと微妙に視線の高さが合わない。
ほんの少し上を向くような角度になる。
いや、そもそも今日はヒールの高い靴を履いてきている訳で……。
「セシル……背、伸びた?」
会うのは二月ぶりに近い。
それだけの期間で十センチ近くは伸びたことになるのではないだろうか。
「カインもそんなこと言ってたけど……やっぱり伸びたのかな?」
親友との差があまり変わらないから実感がない、とセシルは言う。
たしかにこの一、二年ほど、カインとは会う度に彼の背が高くなっているので、もはや気にすらならなくなっているのだが。
「でもローザともやっぱりあんまり変わらないし……」
気のせいじゃないかな、と少し残念そうに言うセシルに、
「そんなことないわよ」
ほら、と足下を指差した。
「だって私、今日はヒールの高い靴を履いてるもの」
「あ……本当だ。じゃあやっぱり背が伸びたんだなぁ……」
嬉しそうにセシルが言う。
良かったわね、とローザも笑い返した。
けれど、他愛のないやりとりなのに、いつもよりも少しだけ上に向ける視線を意識すると、なんだか妙に落ち着かない。
そんな乱れた心を誤魔化すように、
「あ、そうだわ……早く行きましょう。寒いものね、風邪をひいたら大変よ」
そう言うと、最近出来たばかりというデザートが評判のレストランを目指した。
「これを渡したかったの」
暖かい店の中、運ばれてきたお茶に口を付けて落ち着いたところで、ローザは持ってきた包みを取り出した。
わざわざ呼び出した理由をセシルに告げる。
「どうしたの、急に。プレゼントなんて」
「もうすぐ冬も終わっちゃうけれど、作ったから今のうちに渡しておきたくて」
差し出した包みをセシルが受け取る。
「なんだろうな」
包みを開け始めた顔は、子どもがプレゼントを開ける時ようなわくわくとした期待を滲ませる表情だ。
見慣れたいつもの少し幼い顔。
けれど包みを持つ手は、ローザの記憶にある手よりなんだか大きく見える。
今まではあまり意識はしたことがなかったのだけれど、節の目立つ指は、ほっそりとした自分の指とはぜんぜん違うように見える。
「手袋……と、マフラー?」
「え?ええ……」
セシルの声に、魅入っていた目の前に座る彼の手から意識が引き戻される。
「そういえば昨日カインが見たことないマフラーと手袋をして帰ってきたなぁ……もしかしてあれもローザが作った?」
「そうよ」
昨日、カインにセシルの分も預けてしまっても良かったのだが、せっかくならば直接渡したかった。
三人の予定を合わせるのが、忙しい今は少し難しい。
それでカインには昨日、そしてセシルには今日と個別に渡すことになったのだ。
「ありがとう。でも、どうして?」
「この間ちょっとカインに迷惑かけてしまったからそのお礼だったの。せっかくだからあなたにもって思って」
「そうか。そんなこと、カイン何も言ってなかったのになぁ」
「二人お揃いにしましょうかって言ったんだけれど、それは断られちゃったわ」
そんな冗談を言うと、セシルは少し困惑した顔をする。
「さすがにもうお揃いはなぁ……」
「セシルも嫌?」
「嫌じゃないんだけど……使い難いかなぁって」
「やっぱりあなたたち、また同じ事言ってるわ」
カインとのやりとりを思い出して笑ってしまった。
マフラーは淡いブルーに黄色のストライプ、手袋はマフラーと同じ青の一色だけで編んだ。
手袋をはめてみたセシルが、
「ちょうどぴったりだ」
と言う。
その言葉に驚いた。
「えっ?」
大きめに編んだつもりだったのだ。
男の子だから、自分の手よりは少し大きいかなとは思っていた。
冬も終わりに近いから来年も使ってもらえたらと、それよりさらに一回り大きめに編んだ。
結果的に、ローザの手より二回りほど大きなサイズの手袋が出来あがった。
だが、まさかそれでちょうど良いサイズだとは本当に思っていなかったのだ。
「ほら」
セシルが手袋をはめた左手をローザの前に差し出した。
背が伸びたのだから、手も大きくなって当たり前ではある。
けれど、想像していたよりずっと大きな掌を見ていると、なんだか急に心臓がどきどきと鳴り始める。
どうしよう。
そう思ってすぐに考える。
どうしようってなにかしら。
久しぶりに会ったら、ちょっと背が伸びていて、大人っぽくなっていただけだ。
それだけのこと。
突然で、ちょっと驚いただけ。
「ローザ?」
名前を呼ぶ声は、少し幼さが残る、少年らしい高い声。
いつもの聞き慣れた声だ。
「……来年は、もうちょっと早い時期に作るわね」
これでは来年にはもう入らなくなっていることは間違いない。
その頃にはもっと今よりも背が高くなっているのだろう。
ならば自分はどんな風になっているのだろうか。
どんな風に、一緒にいるのだろうか。
いつの間にか変わり始めていた幼馴染みの姿。
驚かされっぱなしで、頬が熱くなったまま、鳴り続ける大きな鼓動が止まらない。
幼い頃は当たり前のように手を繋いでいた。
記憶にあるよりずっと大きくなった手を見つめながら、また手を繋いでみたいなと思う。
だけど気付いてしまった。
あの頃のように無邪気にはもう言えない、と。