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dragoon meets a silver kitten

 館の重厚な扉を押し開けると、雨の湿った匂いが鼻についた。
 扉を出て三歩も歩かぬうちに、子猫のニァという声が耳に届く。
 てっきり足元に寄ってくるかと思ったのだが、声がするのは真下からではなかった。

「待って、ね、暴れないで……」

 ニャァニャァと鳴く子猫は、一人の少女に抱かれていた。

 薄水色のドレスに見覚えがある。
 先ほど、館の中ですれ違った蜂蜜色の髪の少女だ。
 彼女は、腕の中の子猫がカインに向かって鳴いていることに気付くと、猫を逃がさぬよう必死に抱きながら、彼の前まで小走りに駆け寄ってきた。
 歳の頃はまだ7、8歳だろうか。
 着ているドレスと、長い髪に揺れるリボンは上等なシルク。ドレスの袖口のレースはとても繊細で、こんな織りはおそらくトロイアのものだ。ここからトロイアは遠い。手に入れるのも難しい品だった。
 そんな少女の出で立ちに、かなり裕福な家の令嬢なのだろう、とカインは思う。
 ここで何をしているのだろうか。
 石段から少し離れたところに、若い男が雨の中傘を差して立っているのが見える。彼女の従者だろう。

 目の前に立った少女を、カインは見下ろす。
 彼女の腕の中で、子猫がニァと鳴き、尻尾を振った。
「あの、この猫、あなたの……?」
 戸惑いがちに、少女がカインを見上げ口を開いた。
 鈴を振るような、済んだ声。
 見知らぬ男、それも明らかに魔導士でないカインは、彼女の目には奇異に映るはずだ。
 だが少女は戸惑いの色は滲ませながらも、決して臆することなく、カインに問う。

「…………、いや」

 迷う必要はなかったはずだ。

 なぜなら、この銀の猫は、カインが飼っていた猫ではない。
 散々、そう自分に言い聞かせてきた。
 現に今だって、カインはこの子猫を街中に置き去りにするために猫を迎えに来たのだ。
 自分の猫ではない、そう少女に即答すればいい。
 何を一瞬迷ったのだろう。

「でも……ないてるわ」
「……そうだな」
 ミィミィと、子猫が少女の腕の中で鳴いている。その鳴き声は、腹が減った時の情けない鳴き方や、カインを呼ぶ時の少し生意気な鳴き方とも、そして構ってくれと甘えて鳴く時の声とも違っていた。
 か細いが、雨音にかき消されることはなく、カインの耳にしっかりとその声は届く。
 これまで聞いたことのないような切なげな声で鳴き続ける子猫とカインを、少女は見比べる。

「連れて帰るつもりなのか?」
 少女の腕の中からこちらへ前足を伸ばす子猫を見下ろし、カインはそう尋ねた。

「あなたの猫でないのなら、わたしが連れて帰るわ。
 ずっとここでだれかを待っているみたいだったから、お父様には先に帰っていただいて、わたしはここで待っていたの。
 この子にはご主人様がいるのかもしれないと思って」
「そうか」
「誰の猫でもないのなら、お屋敷に連れてきてかまわないってお父様はおっしゃったの」

 幸運な猫だ。
 きっと彼女の元で、これからは幸せに暮らしていけるに違いない。
 修行に明け暮れ、ろくに面倒も見ない自分の傍よりも、ずっと幸せに生きていけるはずだ。

「……だったら早く連れて帰るんだな」
「ほんとうに、いいの?」
「ああ」

 カインの答えに、ミィと一度子猫が鳴いた。
 そして、ずっと鳴き続けていた子猫は、それ以後ぱたりとその鳴き声を止めてしまった。
 揺れていたふさふさの尻尾が、力なく垂れ下がる。

「ありがとう」

 少女はカインに笑うと、くるりと踵を返した。
 従者とおぼしき男が、彼女に傘を差し出す。

 カインは何故か動くことが出来ず、去っていく彼女を見つめていた。
 石段を下りたところで、少女が振り返った。
 少女はカインを再び見上げる。
 その腕の中で、銀色の子猫もまた、カインをじっと見つめている。

 幸せになれ、とも、じゃあな、とも、声をかけることは出来なかった。
 あれだけ執拗に鳴いていた子猫も、ニァともミィとも鳴かなかった。

 少女はカインに礼を言うように頭を下げると、今度こそ振り返ることなく、雨の街へ向かって去っていった。

「でも……ないてるわ」

 頭の中で、少女が先ほど口にした言葉が響く。
 だが、その声は、銀色の子猫を抱いた少女のものではなく、幼馴染みの彼女のものだ。
 脳裏に浮かぶ彼女は、銀髪の親友の背を抱いている。

 あれからちっとも自分は変わっていない。
 幸せになれ、とも、またな、とも、二人に何も言えずに故郷を出てきたあの日から、何も変わっていない。

 雨粒の落ちてくる天を見上げる。
 ぽつりと落ちた雨粒が、すぅと頬を流れ落ちた。

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