gallery≫novel
First Kiss
ファーストキス
食事を終え、場所を居間に移した。
先ほどの話を受け、屋敷の者に言い付け、いくつかの酒を用意させてみる。
カイン自身、まだ十七だ。それほど酒が美味いと思える歳でもない。ましてや酔いを求めて酒精に執着するなどもっての外だ。
貴族社会のしがらみと言うやつで、セシルとはまた異なる社会での付き合いもある立場なので、酒宴の席に出ることはある。醜態をさらすことがないように、十を二つ三つ過ぎた頃からは、そういうことにも慣れるようにと訓練に近い教育も受けてはいた。
酒の味だとか、飲んだ後の気分の高揚などの感覚は、嫌いではない。いずれ、そういうものを純粋に楽しめるような大人になれれば良い。おそらく酒には強いほうだろうとは思っている。
「とりあえずこの辺から始めたらどうだ」
二人は、低いテーブルを挟んで向かい合ったソファに座っている。
そう言いながら、カインは対面のセシルに細いグラスを手渡してやった。
濃い金色の液体に、小さな泡が上っている。ふわりと立ち上る甘い果実の香りは、どこか子供時代を思い出して懐かしい。
「林檎酒?」
「ああ」
香りで分かったのだろう、セシルが尋ねるのに頷いてやる。
林檎酒ならば子供が飲むこともあるようなものなので、飲みやすかろうという配慮だった。もっとも今渡してやったものは、子供が飲むものよりは酒精分は強く、大人が楽しむために作られたものではあるのだが。
そもそもセシルは甘党なので、辛口の酒を飲ませたところで、口に合わないと言い出すのは目に見えている。
「いいにおい」
にこにこと笑いながらセシルはグラスを口に運ぶ。
食事の後のことなので、さほど酒が回るのも早くはないはずだ。
それでもグラスで二杯を空ける頃には、セシルの頬はうっすらと上気し、ほのかに赤く染まっていた。
どの程度まで飲めるのかがわからない以上、カインとしては、まずそこをはっきりさせておきたかった。その上で、セシル自身にその限界を把握させておきたいのだ。わけもわからず飲まされ潰されたというのでは困る。
つい先日、竜騎士団の先輩達との酒の席で言われたことを、カインは嫌というほどに思い出していた。
「この時期になると、新人を潰して回る連中もいるからなあ」
「ぐでんぐでんに酔わされるくらいならいいんだけどな」
「飲み比べで負かした相手を連れ込むやつもいるしな」
口々に言う先輩達は、どこに、とまでは明言しなかったが、その意味は明らかだ。
お前も気をつけろよ、と言われたのだが、そう言った先輩騎士がふと思い出したように苦笑したのだ。
「お前は背もでかいし、まぁ大丈夫だろうが、お前のあの友達なんか危ないだろうなあ」
と。
誰のことかは考えるまでもない。カインとよく一緒にいるセシルのことは、竜騎士団でも知られている。
冗談半分の口調ではあったが、こうして間近でセシルを見ていると冗談では済まないような気がするのだ。
あまりに人目を引く銀色の髪が、白い陶器のような滑らかな頬の輪郭に沿って、ふわふわと揺れている。青みの強い紫の瞳は春の菫のように可憐で、髪と同じ月光の色の長い睫が影を落としている。
最近、ようやく身長が伸びてきたとは言え、まだカインよりも随分と身体は小さく華奢だ。
背の高い少女に見えなくもないのだ。
そんな抜群に整った容姿のセシルを狙う不埒な輩がいないとは到底確信の出来ないカインなのである。
これを機に、ある程度まで酒に慣れさせて、身に危険が及ばないように色々と教えておくべきだろう。
実はセシルが演習に出ていたこの三日間、気が気ではなかったのだ。
どうやら無事に戻ってきたようでほっとしていたカインだが、セシルのほうから酒を覚えたいと言い出したのは幸いと言える。
「カイン?」
しばし考え込み黙ったカインを不審に思ったのだろう。
気付くと、セシルがグラスを持ったまま、カインの隣に来ていた。
ソファがぎしりと微かに軋んだ音を立てる。セシルがカインのすぐ右隣に腰を下ろしたのだ。
「何か考え事?」
ことんと幼い子供のように首を傾げてカインを見上げる。昔からの癖で、見慣れた仕草とは言え、いつもと違ってほんのりと色づいた頬や、うすく開いた唇が妙に目に付く。
すこし瞳が潤んでいるのは、酔いのせいだろうか。
「あ……いや、別に」
「ぼうっとしてるよ」
「そんなことは」
「カインのほうが酔ってる? もしかして」
そう言い、ふふ、とセシルは笑う。
いつもそんな笑い方をしていただろうか。
小さく肩と、そして緩く癖のある髪が揺れて、ふと甘い香りが立ち上った気がする。
その細い肩を思わず抱きそうになる自分に気付き、何をしようとしていたのかと脳内で自身を叱咤する。
これ以上、この距離を保つのは理性に自信が無くなりそうで、思わずカインは立ち上がった。
「……?」
セシルが不思議そうな表情で見上げてくる。
そんな無防備な顔をするなと思いながら、セシルに背を向けて、壁際へと歩き、距離を取る。
あんな顔をするのならば、もはや外で酒など飲ませること自体が論外だ。
他人にあの絶妙な色香の漂う姿を見せるなどあり得ない。
だが、もう四六時中傍にいられた学生時代ではないのだ。
互いに仕事やそれに伴う責任もある。いつも傍に貼り付いていられるわけがない。
危ないから酒は飲むなと言い聞かせたところで、セシルが納得するとも思えない。セシルは自身の容姿にとことん無頓着なのだ。そもそも危ないという意味を理解するかどうかも難しいところだ。
どうしたものだろう。
壁際の飾り棚の前で足を止めたカインは、そこに並ぶボトルにふと視線を向けた。
昔、まだ父が生きていた頃からここにはいくつもの酒のボトルが並べてあって、どちらかと言えばインテリアの一種なのだろう。本当に上等なものは地下の酒蔵に仕舞ってある。
目に止まったのは、透明なボトルだった。中に詰められた液体は、最初に飲ませた林檎酒とも似た金色だ。ただあちらとは違って、発泡性のものではない。
ラベルに書かれた文字を読み取り、そのままボトルを手に取った。
ソファへ戻ると、先ほどとは少しだけ距離を空けてセシルの隣に座る。
「なあに、それ?」
少し呂律が回っていないのも酒のせいだろうか。
まったく飲ませるのではなかった、という後悔と、ここで知れてよかったと思う安堵が半分ずつカインの中にはある。
「蜂蜜酒だ。お前が好きそうな酒だと思うんだが」
「本当?」
「甘いし、かなり飲みやすいからな」
そう言いながら、栓を抜く。微かに蜂蜜の香りが漂う。その馴染んだ甘い好物の匂いに、セシルが嬉しそうに笑む。
新しいグラスの半分ほどまで注ぐと、セシルの手に渡してやる。
すると、初めて口にするものだからだろうか、やや慎重に、セシルはこくりと一口だけその液体を飲み込んだ。
上下する喉は頬と同じく、ほの赤く染まっている。
「……おいしい」
ふわりとセシルが笑う。
飲みやすい酒が弱い酒とは限らないことを、今ここで教えておくべきだろうか。
そう、蜂蜜酒はすっきりとした甘さで非常に口当たりがよく飲みやすいのだが、なかなか強い酒でもあるのだ。
だが、初めて酒を飲んだセシルに、言葉で説明してわかることだとも思えない。
いっそ潰れるまで飲ませて分からせた方が早いかもしれない。その結果、もう酒はこりごりだとでも思ってくれればそれが一番だ。
酔う酔わない以前に、酒を飲んでいる姿だけで、ここまで煽られるものだとは思わなかったのだ。
カインにとっては何よりの誤算だった。
カインの言葉数が少ないせいだろうか、手持ち無沙汰なのか、こくこくとセシルはどんどんグラスに口を付ける。
あっと言う間にグラスが空になって、またそこに酒注いでやる。
「ありがと」
グラスを渡す瞬間に触れた指がいつもよりも熱い気がする。もともと、幼い子供のように体温の高いセシルだ。まるで熱がある時のように赤く上気した頬に触れたくて、しかしそれを堪えるかのようにカインはぐっと拳を握る。
やがて程なく三杯目のグラスが空になる転には、さすがに酔いが回ったのだろう。セシルがとろんとした瞳でカインを見つめ、そのまま、しな垂れかかった。
「カインー」
「……なんだ」
「えへへー。おさけ、おいしいねー」
セシルが笑み崩れる。頬だけでなく目元もすっかり赤く染まり、けれども瞳はまっすぐにカインだけを見ていた。肩にもたれているセシルの髪が、カインの頬をくすぐる。
すっかりと酔ったセシルは何もかもが楽しいのだろう、くすくすと笑い続け、その度に揺れる柔らかな髪が頬や鼻先に触れる。
いつまでこの拷問に耐えなければならないのだろうと、カインは一層強く拳を握る。
少しでも気を抜いたら、この雰囲気に流される。
意思の強さにはそれなりに自信はあった。どちらかと言えば我慢強いほうだとも思う。
だがその自信が瓦解し灰燼に帰す瞬間が、ひたひたと迫ってきている気がしてならない。
どうしたら、いいのだろう。
こんなことは、まだ十七歳のカインには、初めての経験だった。
「カインってばー」
「……っ、おい、セシル!」
ふいに、がばりセシルが抱きついてきた。
両手を首に回し、半ば強引に自分のほうを向かせると、カインの胸元に顔を埋める。
しばらくそのまま胸の中で笑っていたかと思うと、やがてセシルは上目使いにカインの顔を見上げた。
「あ、やっとこっち見た」
「あのな……」
「カインー」
「……だから何なんだ」
「なんでもなーい」
これは完全な酔っ払いだと思いながらも、至近距離でセシルが声を発する度に甘い吐息に包まれ、目眩がするようだ。
これだけ酔っていれば、記憶など無くなってしまうだろうか。
いや、そうに決まっている。
こんな風にカインにべったりと甘えて、訳の分からないことを言っていたことなど忘れてしまうはずだ。
だから、これからカインがすることも、きっと記憶には残らない。
明日になれば、何もなかったことになるだろう。
「セシル」
名前を呼んで、頬に触れれば、
「なあに?」
と甘い答えが返ってくる。
熱を帯び、赤く色づいた頬を掌で撫でると、
「……ん……カインの手、つめたくてきもちいい……」
セシルが自ら頬をこすりつけてくる。
気持ち良い、という呟きが空気に溶け、沈黙が落ちる。
そこにセシルが零す甘い吐息だけが広がっていく。
頬を撫でられる度に、吐息が漏れ、薄く唇が開く。
セシルの頬を撫でていた掌が滑り、指先が唇に触れた。
そのまま指を滑らせ、濡れた唇をなぞる。
「……カイン……?」
何をしているの?と尋ねるかのように無垢な菫の瞳がカインを見つめている。
呟くように名を呼ばれ、その唇の動きに、指先には舌が僅かに触れた。
「目を瞑れ」
「え……?」
「いいから、目を閉じていろ」
そう囁くと、セシルはカインの言葉を疑うことなく、素直に瞼を下ろす。
銀色の長い睫がふわりと羽根が舞い落ちるように下りて、まるでヴェールのように紫の瞳を隠す。
「セシル……」
唇を塞ぐ寸前、無意識に名を呼んでいた。
出会ってから十年以上、何度この名を呼んだだろう。
今まで何百回、いや何千回となく呼んだはずの名前が、そのどれとも違う響きで耳に届いた。
「ぁ……」
触れた唇はとても甘い。
セシルが飲んでいた蜂蜜酒の甘さだろうかと思ったが、蜂蜜よりもずっとずっと甘い味がする。
いつまでも触れていたかった。
「ん……っ」
セシルが微かに零した甘い声に、一度唇を離す。
けれども名残惜しくて、すぐにもう一度口付けようとする。
俺は、何をしているのだろう。
そこでふと我に返った。
がらがらと崩れ落ちた理性の、ほんの僅かな残骸が心の中で自身を問い詰める。
セシルの頬や唇に触れていた手で、今度は自分の顔を覆う。
「……カイン……?」
腕の中のセシルが呼んでいる。
少し声が震えているように感じるのは、気のせいだろうか。
「……まだ目は開けるなよ……」
こんな情けない顔は見られたくない。
それ以上に、あの紫の瞳を今また見てしまったら、残った僅かな理性すらも崩れ去るのは決定的だ。
「……うん……」
胸元でセシルが微かに頷くのがわかった。
きつく抱き締めてやることも、髪を撫でてやることももう出来ない。本当は触れたくて堪らないのだけれど、ぐっとこらえる。
せめてもの理性をかき集め、背中を優しく撫でてやるのが精一杯だった。
どれだけそうしていただろう。
ふと気付けば、微かな寝息が聞こえてきていた。
「全部、忘れろよ……」
酔わせた挙げ句にキスを奪うなんて、こんなはずではなかったのに。
何よりこんなことを忘れてしまいたいのは、カイン自身だ。
けれどきっと間違いなく、生涯忘れることはないだろう。
だからせめてセシルには忘れていてもらいたい。
あまりに自分勝手なことを願う。
矛盾だらけの祈りの中、けれどもわずか一瞬、カインは眠るセシルに再び口付けていた。